【易経】 第44卦「天風姤(てんぷうこう)」– 予期せぬ出会いに心し、真実を見極め道を守る
1. 卦象(かしょう): ䷫

2. 名称(めいしょう): 天風姤(てんぷうこう)
3【この卦のメッセージ】
上卦(じょうか):乾(けん) – 天、創造、剛健、父性、君主 *
下卦(かか):巽(そん) – 風、木、入る、従順、長女、影響力 *
全体のイメージ:広大無辺の天(乾)の下を、風(巽)が隅々まで吹き渡り、あらゆるものに出会っていく。この「天風姤」の姿は、予期せぬ出会いや遭遇を象徴しています。「姤」という文字は、「女」と「后」から成り、一人の女性(陰の力)が多くの男性(陽の力)に出会う、あるいは、強力な陰の気が、陽の気が盛んなところへ不意に現れる様を表します。 この卦の特異な点は、一番下に一つの陰爻(初六)が現れ、その上に五つの陽爻が続いている形です。これは、圧倒的な陽の力の中に、一つの小さな陰の力が忍び込み、影響を及ぼし始める兆しを示しています。この陰の力は、時に魅力的で、人を惹きつけるかもしれませんが、同時に、全体の調和を乱したり、陽の健全な力を蝕んだりする危険性も秘めています。したがって、この卦は、予期せぬ出会いや影響に対して、注意深さと賢明な判断が求められる時であることを教えています。
卦辞(かじ)– この卦全体のテーマ
原文(漢文):姤。女壯。勿用取女。
書き下し文:姤(こう)は女(じょ)壮(さかん)なり。女(じょ)を取(めと)るに用(もち)うる勿(なか)れ。
現代語訳:姤(思いがけない出会いの時)は、陰の力(女)が強い。そのような(強く、時に危険を伴う)女性を娶(めと)ってはならない(深く関わるべきではない)。
ポイント解説:
この卦辞は、「姤」の時における基本的な心構えを端的に示しています。「女壮なり」とは、この時に出会う陰の力(それは魅力的な人や物事、あるいは小さな問題の兆候かもしれません)が、見かけによらず非常に強く、大きな影響力を持っていることを警告しています。そして、「女を取るに用うる勿れ」とは、そのような影響力の強い陰の要素に対して、軽々しく深い関係を持ったり、安易に受け入れたりしてはならない、という強い戒めです。一時の魅力や勢いに流されず、慎重な判断と距離感が求められる時です。
爻辞(こうじ)– 各爻(こう)が示す変化の機微と物語
初六(しょりく):
金柅(きんじ)に繋(つな)ぐ。貞(てい)なれば吉(きち)。往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)らば、凶(きょう)を見(み)る。羸豕(るいし)孚(まこと)ありて蹢躅(てきちょく)す。
原文:繋于金柅。貞吉。有攸往、見凶。羸豕孚蹢躅。
書き下し文:金柅(きんじ)に繋(つな)ぐ。貞(てい)なれば吉(きち)。往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)らば、凶(きょう)を見(み)る。羸豕(るいし)孚(まこと)ありて蹢躅(てきちょく)す。
現代語訳:(陰の力が進み出ないように)金属製のブレーキにしっかりと繋ぎ止める。正しい道を守れば吉である。もし(この陰の力が)進んで行こうとすれば、凶を見るだろう。それは、痩せた豚が、それでもなお進もうとためらいながらもがいているようなものである。
ポイント解説:
この卦の主役である初六の陰爻。この陰の力は、まだ弱いうちにしっかりと制御し、軽率に進み出ないように戒める(金柅に繋ぐ)必要があります。正しい道(貞)を守り、自制するならば吉です。しかし、この陰の力が野放図に勢いを増して進もうとすれば(往く攸有らば)、必ず凶運を招きます。「羸豕孚蹢躅す」とは、力の弱い豚が、それでもなお進もうと(孚ありて)、足踏みしてもがいている様子の比喩で、無謀な行動の末路を示唆しています。初期の段階での自己制御と慎重さの重要性です。
九二(きゅうじ):
庖(くりや)に魚(うお)有り。咎(とが)なし。賓(ひん)に利(よろ)しからず。
原文:包有魚。无咎。不利賓。
書き下し文:庖(ほう)に魚(うお)有(あ)り。咎(とが)なし。賓(ひん)には利(よろ)しからず。
現代語訳:厨房に(初六の陰の力である)魚がいる(それを内に包み込んでいる)。咎めはない。しかし、客をもてなすのには良くない(公にしてはならない)。
ポイント解説:
九二の陽爻が、下の初六の陰爻(魚)を、自分の勢力範囲内(庖)にしっかりと包み込み、コントロールしている状態です。そのため、陰の力が暴走する心配はなく、咎めはありません。しかし、「賓には利しからず」とは、この陰の力(あるいは、その影響下にあるもの)を、公の場に出したり、重要な客をもてなすのに用いたりするのは、まだ時期尚早であり、好ましくないことを示しています。影響を内に留め、慎重に管理すべき時です。
九三(きゅうさん):
臀(しり)に膚(はだえ)なし、其(そ)の行(こう)次且(ししょ)たり。厲(あやう)うけれども大(おおい)なる咎(とが)なし。
原文:臀无膚、其行次且。厲、无大咎。
書き下し文:臀(でん)に膚(ふ)なし、其(そ)の行(こう)次且(ししょ)たり。厲(あやう)うけれども大(おおい)なる咎(とが)はなし。
現代語訳:尻に皮がなく(落ち着きがない)、その歩みはためらいがちでおぼつかない。危うさはあるが、大きな咎めはない。
ポイント解説:
この爻は、下の陰の力(初六)に引かれそうになりながらも、上の陽の力にも挟まれ、進むべきか退くべきか、心が定まらず、落ち着かない(臀に膚なし)状態です。その行動もためらいがち(其の行次且たり)で、不安定です。危うさは伴いますが、九三自身が陽爻であり、まだ決定的な過ちを犯しているわけではないため、大きな咎めには至りません。しかし、不安定な状況であることには変わりなく、慎重な判断が求められます。
九四(きゅうし):
庖(くりや)に魚(うお)なし。凶(きょう)を起(お)こす。
原文:包无魚。起凶。
書き下し文:庖(ほう)に魚(うお)なし。凶(きょう)を起(お)こす。
現代語訳:厨房に魚がいない(初六の陰の力をコントロールできていない)。これでは凶事を引き起こす。
ポイント解説:
九二とは対照的に、この九四は下の初六の陰爻(魚)をうまくコントロールできず、見失ってしまっています(庖に魚なし)。これは、対処すべき問題や、警戒すべき影響力を見過ごし、放置してしまっている状態です。その結果、やがて大きな災い(凶を起す)を引き起こすことになります。小さな問題の芽を早期に摘み取ることの重要性、そしてそれを怠った場合の危険性を示しています。
九五(きゅうご):
杞(き)を以(もっ)て瓜(うり)を包(つつ)む。章(あきら)かなるを含(ふく)めば、天(てん)より隕(お)つる有り。
原文:以杞包瓜。含章、有隕自天。
書き下し文:杞(き)を以(もっ)て瓜(か)を包(ほう)す。章(しょう)を含(ふく)めば、天(てん)より隕(お)つる有(あ)り。
現代語訳:杞(やなぎ)の枝で瓜を包むように(柔弱な陰爻を、陽の徳で包容する)。内に美しい徳性を秘めていれば、天から予期せぬ幸運が降ってくる。
ポイント解説:
君主の位にあり、下の陰の力(初六の瓜)に対して、力で押さえつけるのではなく、まるで柳の枝が瓜を優しく包み込むように、寛容さと徳をもって接しています。そして、自分自身の内には素晴らしい徳(章を含む)を秘めています。このようなあり方であれば、天からの予期せぬ助けや幸運(天より隕つる有り)がもたらされるでしょう。力だけでなく、包容力と内なる徳の重要性を示しています。
上九(じょうきゅう):
其(そ)の角(つの)に姤(あ)う。吝(りん)なれども咎(とが)なし。
原文:姤其角。吝、无咎。
書き下し文:其(そ)の角(かく)に姤(あ)う。吝(りん)なれども咎(とが)なし。
現代語訳:その角(孤高な態度)で出会う(陰の力と距離を置く)。それは好ましいことではないかもしれないが、咎めはない。
ポイント解説:
「姤」の時の最終段階。もはや下の陰の力とは直接的に関わることなく、孤高を保ち、距離を置いている(其の角に姤う)姿です。積極的に関わろうとしないその態度は、周囲からは孤立しているように見え、好ましい(吝)とは言えないかもしれませんが、結果として陰の悪い影響を受けずに済むため、大きな咎めはありません。時には、関わらないという選択もまた、自己を守るための賢明な方法であることを示唆しています。
大象伝(たいしょうでん)– この卦の形から学ぶ、理想のあり方
原文(漢文):象曰。天下有風、姤。后以施命誥四方。
書き下し文:象(しょう)に曰(いわ)く、天(てん)の下(した)に風(かぜ)有(あ)るは姤(こう)なり。后(こう)以(もっ)て命(めい)を施(ほどこ)し四方(しほう)に誥(つ)ぐ。
現代語訳:象伝は言う。天の下を風が吹き渡り、あらゆるものに出会うのが姤の形である。君主(后)はこれに倣(なら)い、命令を広く発布し、国の隅々までその意志を告げ知らせる。
ポイント解説:
天の下を風があまねく吹き渡るように、新しい影響力(陰の気)が広がり始めるのが「姤」の象徴です。これを見た君主(后)は、その影響力にただ流されるのではなく、自らの明確な意志と命令(命)を、国の隅々(四方)にまでしっかりと告げ知らせ(誥ぐ)ことの重要性を学びます。これは、新しい出会いや影響に対して、受け身になるのではなく、自らの確固たる方針や価値観を明確に示し、主導権を握り、社会全体を正しい方向へ導いていく、というリーダーの積極的な姿勢を促しています。
【むすび】
天風姤の卦は、わたしたちが予期せぬ出会いや、新しい影響力(それは時に魅力的であり、時に警戒すべきものでもある)に直面した際に、いかにして自分自身の軸を保ち、賢明な判断と行動を選択していくかという、非常に実践的な智慧を授けてくれます。
- 1. 「女(じょ)壮(さかん)なり。女(じょ)を取(めと)るに用(もち)うる勿(なか)れ」 – 新しい出会いや影響力には、まず慎重な観察眼を: わたしたちの人生には、常に新しい人、新しい情報、新しい流行といった「出会い(姤)」があります。それらは時に非常に魅力的で、強い影響力(女壮なり)を持つかもしれません。しかし、天風姤は、そのような時にこそ、すぐに飛びつくのではなく、まずは冷静に、そして慎重にその本質を見極め、軽々しく深い関係に入る(女を取る)べきではない、と教えています。
そのためには、まず健全な警戒心と、物事の本質を見抜く洞察力を養うことが大切です。 - 2. 「金柅(きんじ)に繋(つな)ぐ」 – あなたの心の「ブレーキ」は、どこにありますか?: 初六の爻が示すように、もし自分にとって好ましくない影響や、良くない習慣の兆候(羸豕)を感じたならば、早い段階でそれをしっかりと制御し、食い止める(金柅に繋ぐ)勇気が必要です。わたしたち自身の心の中にも、時には甘い誘惑や怠惰な心といった「陰の力」が芽生えることがあります。それに対して、自分自身の良心や理性という「ブレーキ」をかけ、正しい道(貞なれば吉)に留まること。それが自己規律です。
- 3. 「命(めい)を施(ほどこ)し四方(しほう)に誥(つ)ぐ」 – あなた自身の価値観と進むべき道を、明確に示そう: 大象伝が教えるように、周囲に様々な影響力が渦巻く時こそ、わたしたち自身が「わたしはこう生きる」「これがわたしの信じる道だ」という明確な意志(命)を持ち、それを自分の行動や言葉を通して、周囲に堂々と示す(四方に誥ぐ)ことが重要です。その確固たる姿勢が、不要な混乱を避け、同じ志を持つ人々を引き寄せ、わたしたちの道を確かなものにしてくれます。
- 4. 「杞(き)を以(もっ)て瓜(うり)を包(つつ)む」 – 寛容さと徳をもって、異なるものとも調和する道を探る: 九五の爻が示すように、たとえ異質なものや、扱いにくいと感じる影響力(瓜)に出会ったとしても、力で排除しようとするのではなく、柳の枝が優しく包み込むように、寛容さと内なる徳(章を含む)をもって接することで、予期せぬ幸運や調和(天より隕つる有り)がもたらされることもあります。
時に異なるものをも受け入れ、そこから学び、より大きな調和を生み出していく、懐の深さでもあるのです。
天風姤の時は、わたしたちの識別力、自制心、そして確固たる自己軸が試される時です。予期せぬ出会いや影響を、ただ恐れたり、あるいは無防備に受け入れたりするのではなく、それを自己成長の機会と捉え、賢明に、そして誠実に向き合っていく。その姿勢こそが、わたしたちを不要な混乱から守り、真に価値あるものとの出会いを引き寄せ、そして人生を、確かな足取りで歩んでいくための、かけがえのない智慧となるでしょう。