「天水訟(てんすいしょう)」– 争いの嵐を鎮め、調和への道を見出す時

1. 卦象: ䷅
2. 卦名: 天水訟(てんすいしょう)
3. 【この卦のメッセージ】
上卦:乾(けん) – 天、創造、剛健、父性、権威
下卦:坎(かん) – 水、険難、陥る、悩み、内なる本心
全体のイメージ:上にある天(乾)は、剛健で上に昇ろうとする性質を持ちます。一方、下にある水(坎)は、険しく下に流れ落ちようとする性質を持っています。天は上へ、水は下へ。このように、上下の性質が互いに背き、反対方向へ向かおうとするため、そこには必然的に対立や衝突、争い(訟)が生じやすい状況が象徴されています。 また、外側(上卦)は剛健で自己主張が強いが、内側(下卦)には険しい困難や深い悩みを抱えている、という心の葛藤の状態をも表していると解釈できます。この卦は、わたしたちが避けたいと願いながらも、時に巻き込まれてしまう「争い」の本質と、その賢明な対処法を教えてくれるのです。
1. 卦辞(かじ)– この卦全体のテーマ
原文(漢文):訟。有孚窒惕。中吉、終凶。利見大人。不利渉大川。
書き下し文: 訟(しょう)は孚(まこと)有(あ)れども窒(ふさ)がりて惕(おそ)る。中(ちゅう)なれば吉(きち)、終(おわ)れば凶(きょう)。大人(たいじん)を見(み)るに利(よろ)し。大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よろ)しからず。
現代語訳: 訟(争い)の時は、たとえ自分に誠実な信念があっても、事態は行き詰まり、警戒心を持たざるを得ない。途中で(和解などで)事を収めれば吉であるが、最後まで争い抜こうとすれば凶となる。徳のある優れた人物(大人=調停者や賢者)に会い、その助言を求めるのが良い。大きな川を渡るような危険なこと(争いを拡大させるような大きな行動)は避けるべきである。
ポイント解説:
この卦辞は、争い事の危険性と、その賢明な対処法を明確に示しています。まず、「孚有れども窒がりて惕る」とは、たとえ自分に正義や誠意があったとしても、争いの中ではそれが通じにくく、警戒心と不安が伴うことを意味します。そして最も重要なのは、「中なれば吉、終れば凶」。つまり、争いは途中で和解したり、妥協点を見つけたりして収めるのが最善であり、最後まで徹底的に争い抜こうとすれば、双方にとって悪い結果(凶)を招くという警告です。このような時には、独力で解決しようとせず、公平で徳のある第三者(大人)に仲介を頼んだり、助言を求めたりすることが推奨されます。また、争いの最中に、さらにリスクの高い新たな行動(大川を渉る)を起こすのは避けるべきです。
2. 爻辞(こうじ)– 各爻(こう)が示す変化の機微と物語
初爻:
事(こと)とする所(ところ)を永(なが)くせず。小(すこ)しく言(げん)有(あ)れども、終(つい)に吉(きち)。
原文:不永所事。小有言、終吉。
書き下し文:事(こと)とする所(ところ)を永(なが)くせず。小(すこ)しく言(げん)有(あ)れども、終(つい)には吉(きち)。
現代語訳:争い事を長引かせない。多少の言い分や非難はあるかもしれないが、最終的には吉となる。
ポイント解説:
争いの初期段階。問題が小さいうちに、事を荒立てず、長引かせないように努めることが大切です。多少の不満や言い分(小しく言有り)は残るかもしれませんが、早期に解決を図ることで、結果的には良い方向(終に吉)に向かいます。小さな火種のうちに消し止める賢明さを示しています。
二爻:
訟(うった)えに克(か)たず。歸(かえ)りて逋(のが)る。其(そ)の邑人(ゆうじん)三百戸(さんびゃっこ)なれば、眚(わざわい)なし。
原文: 不克訟。歸而逋。其邑人三百戸、无眚。
書き下し文:訟(うった)えに克(か)たず。歸(かえ)りて逋(のが)る。其(そ)の邑人(ゆうじん)三百戸(さんびゃっこ)なれば、眚(わざわい)なし。
現代語訳:争いに勝つことができない。引き返して逃れるのが良い。自分の町の三百戸の人々(自分に従う人々)には、災いはない。
ポイント解説:
手が強く、争っても勝ち目がないと判断される状況です。このような時は、無理に争いを続けるのではなく、潔く引き下がり(歸りて逋る)、戦いを避けるのが賢明です。そうすることで、自分自身だけでなく、自分を頼る人々(邑人三百戸)も災いから守ることができます。「負けるが勝ち」という言葉があるように、時には引く勇気も必要です。
三爻:
舊德(きゅうとく)を食(は)む。貞(てい)なれども厲(あやう)し。終(つい)には吉(きち)。或(あるい)は王事(おうじ)に従(したが)えども、成(な)すことなし。**
原文:食舊德。貞厲、終吉。或從王事、无成。
書き下し文:舊德(きゅうとく)を食(は)む。貞(てい)なれども厲(あやう)し、終(つい)には吉(きち)。或(あるい)は王事(おうじ)に従(したが)えども、成(な)すことなし。
現代語訳:先祖から受け継いだ徳によって生活している。正しい道を守っていても危うさが伴うが、最終的には吉となる。あるいは、君主の仕事に従事しても、大きな功績を上げることはない。
ポイント解説:
自分の実力ではなく、過去からの遺産や地位(舊德)に頼って安穏としている状態です。正しい道を守っていても(貞なれども)、その立場は危うさを伴います(厲し)。しかし、最終的にはその徳分によって吉(終には吉)を得ることもできます。ただし、この状態で大きな事業(王事)に関わっても、主体性がないため、大きな成果を上げることは難しいでしょう。現状に甘んじず、自らの力を養うことの重要性を示唆しています。
四爻:訟(うった)えに克(か)たず。命(めい)に復(かえ)り即(つ)き、渝(かわ)りて貞(てい)に安(やす)んず。吉(きち)。
原文:不克訟。復即命、渝安貞。吉。
書き下し文:訟(うった)えに克(か)たず。命(めい)に復(かえ)り即(つ)き、渝(かわ)りて貞(てい)に安(やす)んず。吉(きち)。
現代語訳:争いに勝つことができない。天命に立ち返り、考えを改めて、正しい道に安んじる。そうすれば吉である。
ポイント解説:
二爻と同様に、争いに勝てない状況です。しかし、ここでは単に逃れるのではなく、天の摂理や自分の本分(命)に立ち返り、これまでの考え方や態度を改め(渝りて)、正しい道に心を落ち着ける(貞に安んず)ことで、吉運を掴むことができます。争いから離れ、自己の内面を見つめ直し、本来あるべき姿に立ち返ることの重要性を示しています。
五爻:
訟(うった)う。元(おお)いに吉(きち)。
原文:訟、元吉。
書き下し文:訟(うった)うれば、元(おお)いに吉(きち)。
現代語訳:争いを裁く立場にあれば、この上なく素晴らしく吉である。
ポイント解説:
この爻は、争いを公平に裁き、解決する立場にある人物(例えば、賢明な裁判官や調停者)を示します。そのような公正で力のある人物が争いに関わるならば、問題は根本から解決され、大きな吉(元吉)がもたらされます。これは、卦辞の「大人を見るに利し」と呼応しており、争いの解決には、徳と見識を備えた第三者の介入がいかに重要であるかを示しています。
上爻:
或(あるい)は之(これ)に鞶帶(はんたい)を錫(たま)うも、終朝(しゅうちょう)三(み)たび之(これ)を褫(うば)わる。
原文:或錫之鞶帶。終朝三褫之。
書き下し文: 或(あるい)は之(これ)に鞶帶(はんたい)を錫(たま)うも、終朝(しゅうちょう)には三(み)たび之(これ)を褫(うば)わる。
現代語訳: 争いに勝って、褒美として革の帯を与えられるようなことがあっても、朝が終わるまでには三度もそれを剥ぎ取られてしまうだろう。
ポイント解説:
争いの最終段階。たとえ力ずくで勝利を収め、一時的に名誉や利益(鞶帶)を得たとしても、それは長続きせず、すぐに失われてしまうことを示しています。争いによって得たものは、結局は虚しいものであるという、強い戒めの言葉です。卦辞の「終れば凶」を具体的に示しており、争いを最後まで貫くことの不毛さを教えています。
3. 大象伝(たいしょうでん)– この卦の形から学ぶ、理想のあり方
原文(漢文): 象曰。天與水違行、訟。君子以作事謀始。
書き下し文:象(しょう)に曰(いわ)く、天(てん)と水(みず)と違(たが)い行(ゆ)くは訟(しょう)なり。君子(くんし)以(もっ)て事(こと)を作(な)すに始(はじめ)を謀(はか)る。
現代語訳:象伝は言う。天と水が互いに背き、違う方向へ進もうとするのが訟の形である。君子(人格者)はこれに倣(なら)い、物事を始めるにあたっては、その初期の計画を十分に練り、争いが起こらないようにする。
ポイント解説:
天は上へ、水は下へと、その性質が相反し、調和しないのが「訟」の象徴です。これを見た君子は、そもそも争いが起こらないように、物事を始める段階(始を謀る)で、細心の注意を払い、計画を十分に練り、関係者との合意形成をしっかりと行うことの重要性を学びます。つまり、最善の争い解決法は、争いを未然に防ぐことである、という非常に実践的な教えです。
4.むすび
天水訟の卦は、わたしたちが避けたいと願う「争い」というテーマを通して、実は人間関係や自己成長における多くの大切な智慧を授けてくれます。
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- 1. 「始(はじめ)を謀(はか)る」 – そもそも争いを生まないための、賢明な準備とコミュニケーションを: 大象伝が教えるように、物事を始める前の「初期計画」や「関係者との丁寧なすり合わせ」が、将来の無用な対立を避けるための最大の防御策です。わたしたちも、新しいプロジェクトを始める時、誰かと大切な約束をする時、あるいは家庭内で何かを決定する時など、最初によく話し合い、互いの理解を深め、共通の基盤を築く努力を惜しまないようにしましょう。
- 2. 「命(めい)に復(かえ)り即(つ)き、渝(かわ)りて貞(てい)に安(やす)んず」 – 時には、自分の非を認め、変わる勇気を: 争いの中で、もし自分に至らない点や誤りがあったと気づいたなら、潔くそれを認め、考え方や態度を改める(渝りて貞に安んず)勇気を持ちましょう。それは決して「負け」ではありません。むしろ、真理に立ち返り(命に復り即き)、自分自身を成長させるための、最も尊い一歩なのです。
天水訟の時は、わたしたちのコミュニケーション能力、人間性、そして真の強さが試される時です。しかし、この卦の教えを心に留め、争いを恐れるのではなく、それを調和と成長への機会として捉え直すならば、わたしたちはより賢明に、そしてより温かく、人間関係を育んでいくことができるでしょう。
