【易】第23卦「山地剥(さんちはく)」– 崩れゆく時に守るべきもの、そして再生への静かな備え

1. 卦象(かしょう): ䷖
2. 名称(めいしょう): 山地剥(さんちはく)
3. 【この卦のメッセージ】
上卦(じょうか):艮(ごん) – 山、止まる、篤実、静止
下卦(かか):坤(こん) – 地、受容、柔順、母性、大衆 *
全体のイメージ: どっしりと大地(坤)の上にそびえ立っていたはずの山(艮)が、その一番上の陽爻(上九)を残して、下から陰の力(五つの陰爻)によって、一枚一枚剥ぎ取られるように浸食され、崩れ落ちようとしている。この「山地剥」の姿は、まさに物事の土台が内側から、あるいは下からの見えない力によって徐々に侵され、衰退し、崩壊していく非常に厳しい状況を象徴しています。「剥」という文字は、皮を剥ぐ、剥ぎ取るという意味を持ち、ここではこれまで積み上げてきたもの、頼りにしてきたものが、その力を失い、剥落していく様を表します。 それは、組織の衰退かもしれませんし、人間関係の破綻、あるいは健康や財産の喪失といった、わたしたちが人生で直面しうる、深刻な危機的状況を示唆しています。しかし、この卦の最も重要な点は、一番上に一つだけ残った陽爻(上九)に、再生への希望の種が託されているということです。
1. 卦辞(かじ)– この卦全体のテーマ
原文(漢文):剝。不利有攸往。
書き下し文: 剝(はく)は往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よろ)しからず。
現代語訳:剥(物事が剥ぎ落とされ、衰退する時)は、積極的にどこかへ進んで行こうとするのは良くない。
ポイント解説:
この卦辞は、非常に簡潔かつ直接的に、「剥」の時の基本的な対処法を示しています。「往く攸有るに利しからず」とは、このような衰運の時には、無理に新しいことを始めたり、積極的に打って出たり、あるいは現状に抗って事を荒立てたりするのは、決して良い結果を招かない、ということです。むしろ、今は静かに身を守り、事態の推移を見守り、エネルギーを消耗しないようにすることが賢明であると教えています。
2. 爻辞(こうじ)– 各爻(こう)が示す変化の機微と物語
「剥」の爻辞は、下から上へと、まるでベッドの足から順に剥ぎ取られていくように、衰退が進行していく様子を描写しています。
初六(しょりく):
牀(しょう)を剝(はく)するに足(あし)を以(もっ)てす。貞(てい)を蔑(ないがしろ)にすれば凶(きょう)。
原文:剝牀以足。蔑貞凶。
書き下し文:牀(しょう)を剝(はく)するに足(あし)を以(もっ)てす。貞(てい)を蔑(ないがしろ)にすれば凶(きょう)。
現代語訳:ベッドを剥ぎ取るのに、まず足から手をつける。この時に正しい道を見失い、軽んじれば凶となる。
ポイント解説:
衰退の始まり。まるでベッドの足が侵食され始めるように、物事の土台、基盤が静かに崩れ始めています。この初期の段階で、正しい道(貞)を見失い、状況を甘く見て軽率に行動すれば(蔑にすれば)、取り返しのつかない凶運を招きます。わずかな異変にも注意を払い、慎重に対処すべき時です。
六二(りくじ):
牀(しょう)を剝(はく)するに辨(べん)を以(もっ)てす。貞(てい)を蔑(ないがしろ)にすれば凶(きょう)。
原文:剝牀以辨。蔑貞凶。
書き下し文:牀(しょう)を剝(はく)するに辨(べん)を以(もっ)てす。貞(てい)を蔑(ないがしろ)にすれば凶(きょう)。
現代語訳:ベッドを剥ぎ取るのに、足からさらに進んでベッドの本体の枠組みにまで及んでいる。この時に正しい道を見失い、軽んじれば凶となる。
ポイント解説:
衰退がさらに進行し、ベッドの枠組み(辨)にまで及んでいます。問題はより深刻化し、危険が間近に迫っています。初六と同様に、この状況で正しい道(貞)を見失い、事態を軽視すれば、凶運は避けられません。危機感を持ち、誠実に対処することが求められます。
六三(りくさん):之(これ)を剝(はく)す。咎(とが)なし。
原文:剝之无咎。
書き下し文:之(これ)を剝(はく)す。咎(とが)なし。
現代語訳:これ(陰爻たち)を剥ぎ取る。しかし、咎めはない。
ポイント解説:
この爻は、周囲の陰爻たち(初六、六二)と共に、上の陽爻を侵食しようとする立場にありますが、九四の陽爻と応じている(陰陽和合の兆し)ため、直接的な咎めはないとされています。これは、全体の衰退の流れの中にありながらも、個人的には直接的な災いを免れる、あるいは賢明に立ち回ることで難を避けることができる可能性を示唆しています。しかし、根本的な解決には至っていません。
六四(りくし):
牀(しょう)を剝(はく)するに膚(はだえ)を以(もっ)てす。凶(きょう)。
原文:剝牀以膚。凶。
書き下し文:牀(しょう)を剝(はく)するに膚(ふ)を以(もっ)てす。凶(きょう)。
現代語訳:ベッドを剥ぎ取るのに、ついに寝ている人の肌にまで及んでしまった。凶である。
ポイント解説:
衰退が極めて深刻な段階に達し、もはや身に危険が直接迫っている(膚を以てす)非常に危うい状況です。ここまでくると、もはや小手先の対処ではどうにもならず、大きな災難(凶)は避けられません。これまでの対応のまずさが露呈し、深刻なダメージを受けることを示しています。
六五(りくご):
魚(うお)を貫(つらぬ)く。宮人(きゅうじん)を以(もっ)て寵(ちょう)せらる。利(よろ)しからざるなし。
原文:貫魚、以宮人寵。无不利。
書き下し文:魚(うお)を貫(つらぬ)く。宮人(きゅうじん)を以(もっ)て寵(ちょう)せらる。利(よろ)しからざるなし。
現代語訳:多くの魚が整然と貫かれるように、(陰爻たちが)上の陽爻(上九)に従い、宮中の女官たちが寵愛を受けるように、秩序が保たれる。何事においても不利益なことはない。
ポイント解説:
この爻は、一転して吉の兆しを見せます。多くの陰爻たちが、唯一残った上の陽爻(上九の君主)に、まるで魚が整然と列をなすように、あるいは宮中の女官たちが君主に仕えるように、秩序正しく従い、その寵愛を受けることを示しています。これは、衰退の極みの中で、わずかに残った陽の徳(上九)に皆が従い、一時的ながらも安定と調和が保たれる状態です。このような状況では、何事も順調に進む(利しからざるなし)でしょう。
上九(じょうきゅう):
碩果(せきか)食(くら)われず。君子(くんし)は輿(くるま)を得(え)、小人(しょうじん)は廬(いおり)を剝(はく)す。
原文:碩果不食。君子得輿、小人剝廬。
書き下し文:碩果(せきか)食(くら)われず。君子(くんし)は輿(よ)を得(え)、小人(しょうじん)は廬(ろ)を剝(はく)す。
現代語訳:大きな果実が、ただ一つ食べられずに残っている。君子(徳の高い人)はその果実の価値を理解し、人々から輿(乗り物)を得て尊敬されるが、徳の低い小人物は自分の家(住む場所)さえも剥ぎ取られてしまう。
ポイント解説:
「剥」の時の最終段階。全ての陰爻が陽爻を侵食し尽くそうとする中で、唯一残った陽爻(上九)は、まるで大きな木の枝に一つだけ残った「碩果(大きな果実)」のようです。この果実は、今は食べられずとも、次代への種を内包し、再生の希望を象徴しています。徳の高い君子は、この碩果のように、困難な時代にあってもその価値を失わず、やがては人々からの支持を得て再起します(輿を得)。しかし、私利私欲に走り、衰退に加担した小人物は、全てを失う(廬を剝す)ことになるでしょう。真の価値は、困難な時にも失われず、必ずや再生の時を迎えるという、力強いメッセージです。
3. 大象伝(たいしょうでん)– この卦の形から学ぶ、理想のあり方
原文(漢文):象曰。山附于地、剝。上以厚下安宅。
書き下し文: 象(しょう)に曰(いわ)く、山(やま)地(ち)に附(つ)くは剝(はく)なり。上(かみ)以(もっ)て下(しも)を厚(あつ)くし宅(いえ)を安(やす)んず。
現代語訳: 象伝は言う。山が大地に付着している(が、その大地が侵食されれば山も崩れる)のが剥の形である。上の者は、下の者を手厚く遇し、その生活を安定させることで、自らの地位も安泰にする。
ポイント解説:
山(艮)は大地(坤)の上に成り立っています。その大地が侵食されれば(剥)、山もまた崩れ落ちてしまいます。これを見た君主や指導者(上)は、自分自身の地位や組織の安定(宅を安んず)のためには、まずその土台となる人々(下)の生活を手厚くし、安心させる(下を厚くし)ことが最も重要であると悟ります。つまり、下の者の支持や安定があってこそ、上の者も安泰でいられるという、組織や社会における根本的な道理を示しています。
4. 【むすび】
山地剥の卦は、わたしたちの人生における「衰退期」や「困難な時期」を、どのように受け止め、どのように乗り越え、そしてそこから何を学び取るべきかという、厳しくも深い慈愛に満ちた智慧を授けてくれます。
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- 1. 「剝(はく)」の時を恐れず、変化の必然を受け入れる – それは再生への序章: わたしたちの人生や、周りの状況が、時に衰え、崩れていくように感じられることは避けられない自然のサイクルの一部です。山地剥は、そのような時に、いたずらに抵抗したり、絶望したりするのではなく、まずはその「変化の必然」を静かに受け入れることの大切さを教えています。全てが剥ぎ落とされた後には、必ず新しい何かが生まれる。その再生への希望を、心のどこかに持ち続けましょう。
- 2. 「上(かみ)以(もっ)て下(しも)を厚(あつ)くし宅(いえ)を安(やす)んず」 – 足元を固め、大切なものを守ることから始める: 大象伝が教えるように、真の安定は、まず自分の足元、つまり自分自身の心身の健康、家族や身近な人々との信頼関係、そして日々の生活の基盤といった「下」を手厚くし、安定させることから始まります。「剥」の時には、大きなことを成そうとするよりも、まず自分にとって最も大切なもの、そして自分を支えてくれる基盤を守り、育むことに心を注ぎましょう。それが、やがて来るべき再起の力となります。
- 3. 「貞(てい)を蔑(ないがしろ)にすれば凶(きょう)」 – どんな時も、誠実さと正しい道を見失わない: 初六や六二の爻が繰り返し警告するように、困難な状況であればあるほど、わたしたちは目先の安易な道や不正な手段に誘惑されやすくなるかもしれません。しかし、そんな時こそ、自分自身の内なる「貞(正しさ、誠実さ)」を見失わず、たとえ時間がかかっても、困難であっても、正しいと信じる道を歩み続けることが、最終的な凶運を避ける唯一の道なのです。
山地剥の時は、わたしたちにとって、多くのものを失うかもしれない、厳しい試練の時です。しかし、それは同時に、何が本当に大切なのかを見極め、内なる強さを養い、そして新たな始まりに向けて静かに力を蓄えるための、かけがえのない「転換期」でもあります。この卦の智慧を胸に、どんな困難な状況にあっても希望を失わず、誠実に、そして粘り強く道を歩み続けていきましょう。必ずや、再生の光は差し込んでくるのですから。

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