【易経】 第53卦「風山漸(ふうざんぜん)」– 一歩一歩、徳を積み、時と共に進み昇る道
1. 卦象(かしょう): ䷴

2. 名称(めいしょう): 風山漸(ふうざんぜん)
3.【この卦のメッセージ】
上卦(じょうか):巽(そん) – 風、木、入る、従順、長女
下卦(かか):艮(ごん) – 山、止まる、篤実、静止、少男
全体のイメージ: どっしりと静かに止まる山(艮)の上に、木(巽の象徴の一つ)がゆっくりと、しかし着実に成長していく。あるいは、山の頂きに風(巽)が穏やかに吹き渡り、その影響を徐々に広げていく。この「風山漸」の姿は、物事が急激に変化するのではなく、自然の摂理に従い、順序正しく、段階を追って少しずつ進展していく様を象徴しています。「漸」という文字は、「水が少しずつ染み込むように進む」という意味合いを持ち、ここでは焦らず、着実な前進を表します。 特に、この卦は伝統的に「女の嫁入り」の順序正しい進展に喩えられます。婚約から始まり、様々な儀礼を経て、徐々に新しい家庭が築かれていく。そのように、物事を成就させるためには、適切な手続きと時間をかけ、周囲との調和を保ちながら進むことの重要性を示唆しています。
卦辞(かじ)– この卦全体のテーマ
原文(漢文):漸。女歸吉。利貞。
書き下し文:漸(ぜん)は女(じょ)の帰(とつ)ぐに吉(きち)。貞(ただ)しきに利(よろ)し。
現代語訳:漸(物事が順序正しく進む時)は、女性が嫁ぐのに吉である。正しい道を守ることが大切である。
ポイント解説:
この卦辞は、「漸」の時が、物事を順序正しく、段階を踏んで進めていくのに非常に良い時であることを示しています。「女の帰ぐに吉」とは、女性が正式な手続きを経て嫁いでいくこと、つまり、正しい順序と礼儀をもって事を進めるならば、必ず良い結果が得られるという比喩です。そして、その進展が真に良いものであるためには、「貞しきに利し」、つまり、その過程が正しく、誠実であることが不可欠であると強調しています。焦らず、正道を踏み、一歩一歩着実に進むことの重要性を教えています。
爻辞(こうじ)– 各爻(こう)が示す変化の機微と物語
「風山漸」の爻辞は、しばしば「鴻(おおとり)」が水辺から陸へ、そして木へ、丘へ、さらには天空へと、一歩一歩安全な場所を選びながら進んでいく姿に喩えられます。これは、漸進的な発展の各段階における賢明な進み方を示唆しています。
初六(しょりく):
鴻(こう)水涯(すいがい)に漸(すす)む。小子(しょうし)厲(あやう)うけれども言(げん)有(あ)り。咎(とが)なし。
原文:鴻漸于干。小子厲。有言。无咎。
書き下し文:鴻(こう)水涯(すいがい)に漸(すす)む。小子(しょうし)厲(あやう)うけれども言(げん)有(あ)り。咎(とが)なし。
現代語訳:鴻(おおとり)が水際(みぎわ)に少しずつ進み出る。まだ力のない若者(小子)にとっては危うさが伴い、周囲から何かと言われるかもしれないが、(慎重に進めば)咎めはない。
ポイント解説:
漸」の始まり。まだ力も経験も浅い(小子)が、新しい環境(水涯)へと、恐る恐る、しかし確かな一歩を踏み出す時です。周囲からは心配されたり、何かと口出しされたり(言有り)するかもしれませんが、慎重に進み、分をわきまえれば、大きな過ち(咎なし)を犯すことはありません。新しいことへの挑戦の、最初の一歩の大切さと、その際の慎重さを示しています。
六二(りくじ):
鴻(こう)磐(いわ)に漸(すす)む。飲食(いんしょく)衎衎(かんかん)たり。吉(きち)。**
原文:鴻漸于磐。飲食衎衎。吉。
書き下し文:鴻(こう)磐(ばん)に漸(すす)む。飲食(いんしょく)衎衎(かんかん)たり。吉(きち)。
現代語訳:鴻が(水際から進んで)大きな岩の上に安住する。飲食を心ゆくまで楽しみ、和やかである。吉である。
ポイント解説:
初六から一歩進み、より安定した場所(磐)に到達した状態です。そこでは、心安らかに飲食を楽しみ(飲食衎衎たり)、穏やかな喜びを分かち合うことができます。これは、地道な努力が実を結び、一時的な安定と心の余裕を得たことを示し、吉です。努力の後の、心地よい休息と充足の時です。
九三(きゅうさん):
鴻(こう)陸(りく)に漸(すす)む。夫(おっと)征(ゆ)きて復(かえ)らず、婦(つま)孕(はら)めども育(そだ)てず。凶(きょう)。寇(あだ)を禦(ふせ)ぐに利(よろ)し。**
原文:鴻漸于陸。夫征不復、婦孕不育。凶。利禦寇。
書き下し文:鴻(こう)陸(くが)に漸(すす)む。夫(ふ)征(ゆ)きて復(かえ)らず、婦(ふ)孕(よう)すれども育(いく)せず。凶(きょう)。寇(こう)を禦(ふせ)ぐに利(よろ)し。
現代語訳:鴻が(さらに進んで)陸地にまで進み出る。しかし、夫は遠征に出て帰らず、妻は妊娠しても子を育てることができない。凶である。このような時は、外敵から身を守ることに専念するのが良い。
ポイント解説:
この爻は、「漸」の進展の中で、やや行き過ぎや無理が生じている状況を示します。進むことにばかり気を取られ、家庭や内面の安定(夫征きて復らず、婦孕めども育てず)が疎かになり、不和や困難が生じています。これは凶運です。このような時は、さらなる前進を求めるのではなく、まず足元を固め、外からの災いや内なる乱れ(寇)から自分自身や大切なものを守る(禦ぐに利し)ことに専念すべきです。
六四(りくし):
鴻(こう)木(き)に漸(すす)む。或(あるい)は其(そ)の桷(たるき)を得(う)。咎(とが)なし。**
原文:鴻漸于木。或得其桷。无咎。
書き下し文:鴻(こう)木(ぼく)に漸(すす)む。或(あるい)は其(そ)の桷(かく)を得(う)。咎(とが)なし。
現代語訳:鴻が(さらに進んで)木の上に止まる。あるいは、その止まり木としてふさわしい平らな枝を見つける。咎めはない。
ポイント解説:
六四は柔順な爻ですが、九五の賢明な君主の近くにあり、その良い影響を受けています。鴻が木の上に安全な止まり木(桷)を見つけるように、不安定な状況から抜け出し、自分にとってふさわしい、安定した立場や環境を得ることができる時です。無理をせず、状況に応じて柔軟に対応することで、咎なく安泰を得られます。
九五(きゅうご):
鴻(こう)陵(おか)に漸(すす)む。婦(つま)三歳(さんさい)孕(はら)まず。終(つい)に之(これ)を勝(た)うること莫(な)し。吉(きち)。**
原文:鴻漸于陵。婦三歳不孕。終莫之勝。吉。
書き下し文:鴻(こう)陵(りょう)に漸(すす)む。婦(ふ)三歳(さんさい)孕(よう)せず。終(つい)に之(これ)を勝(しょう)すること莫(な)し。吉(きち)。
現代語訳:鴻が(最も高い)丘の上にまで進み出る。妻は三年もの間、妊娠しない(すぐには成果が現れない)。しかし、最終的には誰もその勢いを妨げることはできない。吉である。
ポイント解説:
君主の位にあり、最も高い場所(陵)に到達し、その徳望は頂点に達しています。しかし、その成果がすぐに形として現れない(婦三歳孕まず)ことがあるかもしれません。焦らず、徳に基づいた正しい道を貫き通せば、最終的には誰もその素晴らしい勢いを妨げることはできず(終に之を勝うること莫し)、大きな吉(吉)を得るでしょう。真の価値は、時間をかけて成就することを示唆しています。
上九(じょうきゅう):
鴻(こう)逵(みち)(陸(くが))に漸(すす)む。其(そ)の羽(はね)儀(ぎ)と為(な)す可(べ)し。吉(きち)。**
原文:鴻漸于逵(陸)。其羽可用為儀。吉。
書き下し文:鴻(こう)逵(りく)に漸(すす)む。其(そ)の羽(う)は儀(ぎ)と為(な)す可(べ)し。吉(きち)。
現代語訳:鴻が(天高く)雲路(あるいは人々の往来する大道)にまで進み出る。その羽は、人々の模範となる飾りとして用いることができる。吉である。
ポイント解説:
「漸」の極点。鴻が天高く、雲の中の道(逵)を悠々と飛翔しているように、その徳と功績は完成の域に達し、多くの人々の模範となっています。その美しい羽(=行いや功績)は、儀式に用いられる飾り(儀と為す可し)のように、後世まで称えられ、人々の手本となるでしょう。これ以上ないほどの、素晴らしい吉です。
【風山漸(ふうざんぜん)の「彖伝」】
原文 彖曰。漸之進也。女歸吉也。進以正、可以正邦也。其位剛得中也。止而巽、動不窮也。
書き下し文 彖(たん)に曰(いわ)く、漸(ぜん)の進(すす)むや、女(じょ)の帰(とつ)ぐに吉(きち)なるなり。進(すす)むに正(せい)を以(もっ)てすれば、以て邦(くに)を正(ただ)しうす可(べ)きなり。其(そ)の位(くらい)剛(ごう)にして中(ちゅう)を得(う)ればなり。止(とど)まりて巽(したが)えば、動(うご)き窮(きわ)まらざるなり。
現代語訳 彖伝は言う。「漸」とは、順序正しく進むことである。(卦辞に)「女性が嫁ぐのに吉である」とあるのは、その進み方が正しいからであり、それによって国をも正しく治めることができる。その位(九五の爻)が剛健で中庸の徳を得ているからである。(下の艮の)静止する徳と、(上の巽の)柔順に従う徳が合わさっているので、その動きは行き詰まることがないのである。
大象伝(たいしょうでん)– この卦の形から学ぶ、理想のあり方
原文(漢文):象曰。山上有木、漸。君子以居賢德善俗。
書き下し文:象(しょう)に曰(いわ)く、山(やま)の上(うえ)に木(き)有(あ)るは漸(ぜん)なり。君子(くんし)以(もっ)て賢德(けんとく)に居(お)りて俗(ぞく)を善(よ)くす。
現代語訳:象伝は言う。山の上に木が生え、ゆっくりと成長していくのが漸の形である。君子(人格者)はこれに倣(なら)い、賢明な徳を身に修めてその地位に安んじ、それによって人々の風俗を善導する。
ポイント解説:
山の上に木が根を張り、風雪に耐えながらも、ゆっくりと、しかし着実に成長していく。これが「漸」の象徴です。これを見た君子は、「賢德に居りて俗を善くす」、つまり、まず自分自身が賢明で優れた徳(賢德)を身につけ、その徳に基づいた正しいあり方(居りて)を堅持します。そして、その徳の力をもって、焦らず、徐々に、社会の風俗や人々の心を善い方向へと導いていく(俗を善くす)のです。一朝一夕の改革ではなく、徳による感化と、持続的な善行の積み重ねこそが、真の社会の進歩をもたらすという、深い教えです。
【むすび】
風山漸の卦は、わたしたちが人生の目標に向かって、いかにして着実に、そして調和を保ちながら進んでいくべきかという、穏やかで、しかし確かな智慧を授けてくれます。
- 1. 「小(しょう)を積(つ)みて以(もっ)て高大(こうだい)を成(な)す」 – あなたの「今日の一歩」が、未来の大きな山を築く: 大象伝が教えるように、どんなに大きな目標も、日々の小さな努力や善行の「積み重ね」から始まります。わたしたちの道もまた、焦らず、一歩一歩、目の前の課題に誠実に取り組むこと、そしてその小さな進歩を喜び、大切にすること。その地道な継続が、やがては想像もできないほどの「高大」な成果へと繋がっていくのです。
- 2. 「女(じょ)の帰(とつ)ぐに吉(きち)」 – 物事には「順序」と「礼節」があることを忘れずに:卦辞が「女の帰ぐに吉」と示すように、わたしたちが何かを成し遂げようとする時、あるいは新しい関係を築こうとする時には、正しい順序と、相手への敬意や礼節を忘れてはなりません。急いては事を仕損じます。日々新たによくなるためには、結果を急ぐのではなく、プロセスを大切にし、一つひとつの段階を丁寧に踏んでいく、その落ち着いた姿勢が求められます。
- 3. 「賢德(けんとく)に居(お)りて俗(ぞく)を善(よ)くす」 – あなたの内なる徳を磨き、善き影響の輪を広げよう: わたしたち一人ひとりが、まず自分自身の内なる徳(賢德)を磨き、それを日々の行動や言葉を通して、周囲の人々へとしなやかに、そして穏やかに広げていく(俗を善くす)。風山漸は、そのような「徳による感化」の重要性を教えています。そうして、あなたが「益々よくなる」姿は、それ自体が周囲への素晴らしい贈り物となり、社会全体をより良い方向へと導く、静かで力強い力となるのです。
- 4. 「鴻(こう)の漸(すす)む」ように – あなたのペースで、しかし確実に、高みを目指そう: 爻辞に描かれる鴻(おおとり)は、水際から岩へ、陸へ、木へ、そして丘へ、さらには天空へと、一歩一歩安全な場所を選びながら、着実にその高度を上げていきます。わたしたちの旅もまた、これと同じです。他人と比べることなく、自分自身のペースを大切にしながら、しかし常に少しでもより高い場所、より良い自分を目指して、学び続け、努力し続ける。その粘り強い歩みこそが、最終的にわたしたちを、後悔のない、そして誇りに満ちた境地(上九の吉)へと導いてくれるでしょう。
風山漸の時は、わたしたちが焦らず、騒がず、しかし確かな信念を持って、内なる徳を養い、日々の小さな努力を積み重ね、そしてゆっくりと、しかし確実に、自分自身の人生をより高く、より豊かなものへと「昇らせて」いく、静かで力強い成長の時です。この卦の智慧を胸に、わたしたちもまた、一歩一歩の進みを大切にしながら、美しい山を登っていきましょう。