【易経】「雑卦伝」 – 対比の智慧で学ぶ、64卦の本質
易経のための「案内図」雑卦伝(ざっかでん)
ブログを訪れてくださり、ありがとうございます。
本日わたしたちが探求するのは、易経の解説書「十翼」の一つ、「雑卦伝(ざっかでん)」です。
雑卦伝は、難しい言葉を並べるのではなく、まるで歌をうたうように、リズミカルな「対比」によって各卦の本質を鮮やかに描き出し、わたしたちの心に深く刻み込んでくれます。 この記事では、まず「雑卦伝」の全文を、「原文」「書き下し文」「現代語訳」の形で、その言葉の響きとリズムをありのままに感じていただきます。そして最後に、この対比の智慧全体から、わたしたちの「日々新たに、益々よくなる」ための、かけがえのないヒントを一緒に探求していきましょう。
【「雑卦伝」原文】
乾剛。坤柔。比樂。師憂。臨觀之義、或與或求。屯見而不失其居。蒙雜而著。 震起也、艮止也。損益盛衰之始也。大畜時也、无妄災也。萃聚、而升不來也。 謙輕而豫怠也。噬嗑食也、賁无色也。兌見而巽伏也。隨无故也、蠱則飭也。 剥爛也。復反也。晉晝也、明夷誅也。井通而困相遇也。咸速也、恆久也。 渙離也、節止也。解緩也、蹇難也。睽外也、家人内也。否泰反其類也。 大壯則止、遯則退也。大有衆也、同人親也。革去故也、鼎取新也。 小過過也、中孚信也。豐多故也、親寡旅也。離上而坎下也。小畜寡也、履不處也。 需不進也、訟不親也。大過顛也。姤遇也、柔遇剛也。漸女歸、待男行也。頤養正也。 既濟定也。歸妹女之終也。未濟男之窮也。夬決也、剛決柔也。君子道長、小人道憂也。
【書き下し文】
乾(けん)は剛(ごう)、坤(こん)は柔(じゅう)。比(ひ)は楽(たの)しみにして、師(し)は憂(うれ)う。臨(りん)と観(かん)の義(ぎ)は、或(あるい)は与(あた)え或(あるい)は求(もと)む。屯(ちゅん)は見(あら)われて其(そ)の居(きょ)を失(うしな)わず。蒙(もう)は雑(ざつ)にして著(あらわ)る。震(しん)は起(おこ)るなり、艮(ごん)は止(とど)まるなり。損益(そんえき)は盛衰(せいすい)の始(はじ)めなり。大畜(たいちく)は時(とき)なり、无妄(むぼう)は災(わざわい)なり。萃(すい)は聚(しゅう)し、而(しか)して升(しょう)は来(きた)らざるなり。謙(けん)は軽(けい)にして豫(よ)は怠(たい)なり。噬嗑(ぜいこう)は食(しょく)なり、賁(ひ)は色(いろ)无(な)きなり。兌(だ)は見(あらわ)れて巽(そん)は伏(ふ)するなり。隨(ずい)は故(こ)无(な)きなり、蠱(こ)は則(すなわち)飭(ととの)うるなり。剥(はく)は爛(ただ)るるなり。復(ふく)は反(かえ)るなり。晉(しん)は晝(ひる)なり、明夷(めいい)は誅(ちゅう)せらるるなり。井(せい)は通(つう)じ、困(こん)は相(あい)遇(あ)うなり。咸(かん)は速(すみ)やかなるなり、恆(こう)は久(ひさ)しきなり。渙(かん)は離(り)なり、節(せつ)は止(し)なり。解(かい)は緩(かん)なり、蹇(けん)は難(なん)なり。睽(けい)は外(そと)にして、家人(かじん)は内(うち)なり。否泰(ひたい)は其(そ)の類(るい)に反(はん)するなり。大壯(たいそう)は則(すなわち)止(とど)まり、遯(とん)は則(すなわち)退(しりぞ)くなり。大有(たいゆう)は衆(おお)きなり、同人(どうじん)は親(した)しきなり。革(かく)は故(ふる)きを去(さ)るなり、鼎(てい)は新(あら)たなるを取(と)るなり。小過(しょうか)は過(す)ぐるなり、中孚(ちゅうふ)は信(しん)なり。豐(ほう)は故(こと)多(おお)きなり、親寡(しんか)なれば旅(りょ)なり。離(り)は上(うえ)にして坎(かん)は下(した)なり。小畜(しょうちく)は寡(すくな)きなり、履(り)は処(とどま)らざるなり。需(じゅ)は進(すす)まざるなり、訟(しょう)は親(した)しまざるなり。大過(たいか)は顛(くつがえ)るなり。姤(こう)は遇(あ)うなり、柔(じゅう)が剛(ごう)に遇(あ)うなり。漸(ぜん)は女(じょ)の帰(とつ)ぐに、(男が)行(ゆ)くを待(ま)つなり。頤(い)は正(せい)を養(やしな)うなり。既濟(きせい)は定(さだ)まるなり。帰妹(きまい)は女(じょ)の終(おわり)なり。未濟(びせい)は男(だん)の窮(きわ)まるなり。夬(かい)は決(けつ)なり、剛(ごう)が柔(じゅう)を決(けっ)するなり。君子(くんし)の道(みち)は長(ちょう)じ、小人(しょうじん)の道(みち)は憂(うれ)うなり。
【現代語訳】
乾は剛健であり、坤は柔順である。比は楽しみであり、師は憂いである。臨と観の意味は、一方は与えることであり、もう一方は求めることである。産みの苦しみを伴う屯は、芽が現れても、まだその土台を失わない状態である。蒙は、雑然としていて、しかし次第に何かが明らかになる状態である。震は奮い起こることであり、艮は静止することである。損と益は、盛んになることと衰えることの始まりである。大いに蓄える大畜は、時を待ち力を蓄えることであり、偽りのない无妄は、時に予期せぬ災難に見舞われることである。萃は集い寄ることであり、升は下からやって来る(引き上げられる)のではなく(自力で昇るの)である。謙虚な謙は身を軽くし、喜び楽しむ豫は心が安らぎ怠る。障害物を噛み砕く噬嗑は、物を食らうことであり、賁は飾ることであるが、その極致は飾りのない無色(の本質美)である。喜びの兌は外に現れ、従順な巽は内に伏し隠れるように浸透する。時に随う隨は、特定の理由なくとも自然に従うことであり、事が破れた蠱は、則ちその乱れを積極的に整え治めることである。剥は物が爛(ただ)れ朽ちることであり、復はその状態から反転し、帰ってくることである。晉は昼の明るさであり、明夷は明るさが傷つけられることである。井戸の井は(恵みが)万人に通じ、困窮する困は互いに(困難に)出会うことである。互いに感じ合う咸は、その感応が速やかであることが特徴であり、長く続く関係を表す恆は、その名の通り久しいことが本質である。解け散る渙は離れることであり、節度を守る節は止まることである。困難が緩む解は緩やかになることであり、行き悩む蹇は難儀なことである。不和の睽は心が外向きであり、家族の家人では心が内向きである。否と泰は、その性質が互いに正反対である。力が盛んな大壯は(行き過ぎて)止まる危険性があり、不利から退く遯は退却することである。多くのものを所有する大有は衆が多いことであり、人と心を同じくする同人は親しむことである。革は古いものを去ることであり、鼎は新しいものを取り入れて養うことである。少し行き過ぎる小過は過ぎることであり、中心の誠である中孚は信じることである。豊かさが極まる豐は多くの出来事や悩みを伴い、親しい者が少なくなれば旅に出るように孤独になる。離(火)は上に昇り、坎(水)は下に降る。少しだけ蓄える小畜はまだ寡(すくな)きことであり、道を踏み行う履は一つの場所に処(とどま)らないことである。時を待つ需は進まないことであり、争いの訟は親しまないことである。大きく行き過ぎる大過はひっくり返ることである。姤は出会うことであり、柔が剛に出会うことである。漸は女性が嫁ぐに、(男性がその進展を)待つことである。頤は正しく養うことである。既濟は物事が定まることである。帰妹は女性の人生の終着点(嫁ぐこと)である。未濟は男性が行き詰まり、窮まることである(そこからまた新たな挑戦が始まる)。夬は決断することであり、剛が柔を断ち切ることである。君子の道は長く栄え、小人の道は憂うべきものとなる。
【むすび】– 雑卦伝が示す「対比の智慧」から学ぶヒント
この「雑卦伝」の言葉の連なりは、単なるキーワードの羅列ではありません。それは、わたしたちの人生という、複雑で、変化に富み、そして美しい航海を乗りこなすための、非常に実践的な「智慧の地図」なのです。その地図から、わたしたちが「日々新たに、益々よくなる」ための、いくつかの大切なヒントを読み解いていきましょう。
人生は「対比」で満ちている – 陰陽のダイナミズムを受け入れ、味わう
* 「乾は剛、坤は柔」「比は楽にして、師は憂う」「晉は晝なり、明夷は誅せらるるなり」。雑卦伝は、わたしたちの世界が、常にこのような「対比のエネルギー」で満ち溢れていることを教えてくれます。良い時もあれば、悪い時もある。喜びもあれば、憂いもある。それは、どちらかが優れているという話ではなく、その両方があって初めて、わたしたちの人生は立体的で、深みのある、豊かな物語となるのです。
光の時だけを求めるのではなく、影の時の意味をも理解し、その全ての局面を、成長の糧として受け入れていく、しなやかで強い心のあり方です。
始まりと終わり、継続の「質」を見極める
「咸は速やかなるなり、恆は久しきなり」「革は故きを去るなり、鼎は新たなるを取るなり」。雑卦伝は、物事の様々な「質」の違いを鮮やかに示します。一瞬のときめきのような出会い(咸)もあれば、時間をかけて育む永続的な関係(恆)もあります。古いものを大胆に刷新する変革(革)もあれば、新しいものを大切に養い育てる創造(鼎)もあります。わたしたちが道を歩む上で、「今、必要なのはどんな質のエネルギーだろうか?」と自問し、状況に応じて適切なアプローチを選択する、その賢明さが求められているのです。
行動の「時」と「場」をわきまえる
「大畜は時なり」「需は進まざるなり」「履は処らざるなり」。これらの言葉は、行動における「タイミング」と「あり方」の重要性を示唆しています。時には、力を「大いに蓄え」、時を待つ(大畜)ことが最善であり、時には、あえて「進まず」、好機を待つ(需)ことが賢明です。また、「履」のように、一つの場所に「とどまらず」、常に正しい道を踏み行なっていくべき時もあります。やみくもに行動するのではなく、今がどんな「時」であり、自分はどんな「場」にいるのかを冷静に見極める。その洞察力が、わたしたちの努力を、実りあるものへと導きます。
混乱や困難の中にも、必ず「意味」と「道」はある
「屯は見れて其の居を失わず」「困は相遇うなり」「解は緩むなり、蹇は難きなり」。雑卦伝は、人生の困難な局面からも、決して目をそらしません。産みの苦しみ(屯)、困窮(困)、行き悩み(蹇)といった厳しい状況を描写する一方で、必ずその対となる、あるいはその先にある、希望の光をも示してくれます。困難な状況にあっても、「この経験にはどんな意味があるのだろうか」「ここからどこへ向かえば良いのだろうか」と問い続けることで、わたしたちは必ず次の一歩へと繋がる道を見出すことができるのです。
最終的に問われるのは「君子の道」か「小人の道」
雑卦伝の最後を締めくくる「君子の道は長じ、小人の道は憂うなり」という言葉は、わたしたちの心に深く響きます。六十四卦が示す人生のあらゆる局面、あらゆる選択の根底には、結局のところ、この一つの問いが横たわっています。「あなたのその選択は、徳に基づいた、長く善きものへと繋がる『君子の道』ですか? それとも、目先の利益や私欲に囚われた、やがて憂いを招く『小人の道』ですか?」と。
「日々新たに、益々よくなる」とは、日々の小さな選択の瞬間に、常にこの問いを自分自身に投げかけ、意識的に「君子の道」を選び取っていく、その積み重ねに他ならないのです。
この「雑卦伝」という素晴らしい智慧の地図を手に、わたしたちもまた、人生の様々な風景を深く味わい、その変化の波をしなやかに乗りこなしながら、真の調和を目指す「益々善成」の旅を、これからも一緒に続けていきましょう。