【易の叡智 第10卦】「天沢履(てんたくり)」– 礼節の道を喜びと慎重さで踏み行う時

1. 卦象: ䷉
2. 卦称: 天沢履(てんたくり)
3. 【この卦のメッセージ】
上卦:乾(けん) – 天、創造、剛健、父性、リーダー
下卦:兌(だ) – 沢、喜び、悦楽、少女、口
全体のイメージ: 力強く尊い天(乾)が上にあり、その下に喜びと潤いをもたらす沢(兌)が従っている。この「天沢履」の姿は、まるで尊大なものの後を、喜びと慎重さをもってついていく、あるいは、定められた正しい道(履むべき道)を、礼儀正しく、かつ喜びの心をもって踏み行う様子を象徴しています。「履」という文字は、足で何かを踏む、実行する、という意味の他に、人が守るべき礼儀や規範という意味も持ちます。 天という絶対的な存在、あるいは社会的な秩序や上位者の後を、沢という喜悦の心で従いつつも、沢は浅く、時にその底には危険が潜むこともあります(虎の尾を踏む危険性も示唆される)。そのため、この卦は、正しい道を踏み行う喜びと同時に、慎重さ、礼儀正しさ、そして状況に応じた適切な行動の重要性をわたしたちに教えてくれるのです。
4-1. 卦辞(かじ)– この卦全体のテーマ**
原文(漢文): 履虎尾、不咥人。亨。
書き下し文:虎(とら)の尾(お)を履(ふ)めども、人(ひと)を咥(くら)わず。亨(とお)る。
現代語訳:(たとえ)虎の尾を踏むような危険な状況にあっても、(正しい礼儀をもって慎重に行動すれば)虎は人に噛みつかない。願いは通る。
ポイント解説:
この卦辞は、一見危険な状況(虎の尾を履む)に遭遇しても、適切な態度と行動(礼儀正しさ、慎重さ)を心がければ、危害を加えられることなく(人を咥わず)、物事はスムーズに進展し、願いは成就する(亨る)ことを示しています。これは、どんなに困難で緊張感のある状況でも、正しい「履み行う道」すなわち「礼」と「慎重さ」を忘れなければ、道を切り拓いていけるという、力強いメッセージです。恐れずに、しかし敬意と注意深さをもって事に当たることの重要性を教えています。
4-2.爻辞(こうじ)– 各爻(こう)が示す変化の機微と物語**
初爻:
素履(そり)にして往(ゆ)く。咎(とが)なし。
原文:素履往。无咎。
書き下し文:素履(そり)にして往(ゆ)く。咎(とが)なし。
現代語訳: 飾り気のない素朴な履物で、そのまま進んでいく。咎めはない。
ポイント解説:
物事の始まり。まだ何の地位も飾りもない、素朴で純粋な状態で、自分の信じる道(素履)をまっすぐに進んでいく時です。余計な計算や見栄を張らず、ありのままの自分で誠実に行動すれば、何の咎めもありません。初心を忘れず、シンプルに、誠実に一歩を踏み出すことの大切さを示しています。
二爻:
道(みち)を履(ふ)むこと坦坦(たんたん)たり。幽人(ゆうじん)は貞(てい)にして吉(きち)。**
原文:履道坦坦。幽人貞吉。
書き下し文:道(みち)を履(ふ)むこと坦坦(たんたん)たり。幽人(ゆうじん)は貞(てい)にして吉(きち)。
現代語訳:踏み行う道は平坦で広々としている。世俗から離れて静かに道を守る人(幽人)は、正しくしていれば吉である。
ポイント解説:
進むべき道が、平坦で妨げるものもなく、スムーズに進める状況です。このような時、世俗的な名誉や利益に心を奪われることなく、静かに自分の内面を見つめ、正しい道(貞)を守り続ける「幽人」のような姿勢が吉とされます。順調な時こそ、心を奢らず、静かに徳を養うことの重要性を示しています。
三爻:
眇(すがめ)にして能(よ)く視(み)、跛(びっこ)にして能(よ)く履(ふ)む。虎(とら)の尾(お)を履(ふ)む。人(ひと)を咥(くら)う。凶(きょう)。武人(ぶじん)于(ここ)に大君(たいくん)と為(な)る。
原文:眇能視、跛能履。履虎尾、咥人、凶。武人為于大君。
書き下し文:眇(すがめ)にして能(よ)く視(み)、跛(びっこ)にして能(よ)く履(ふ)む。虎(とら)の尾(お)を履(ふ)み、人(ひと)を咥(くら)う、凶(きょう)。武人(ぶじん)は于(ここ)に大君(たいくん)と為(な)る。
現代語訳:片方の目が見えなくても見ようとし、片足が不自由でも歩こうとする。しかし、それは虎の尾を踏むような危険な行為であり、虎に噛まれてしまう。凶である。このような(無謀な)武人は、大君主のために働く(功を焦るが失敗する)。
ポイント解説:
この爻は、自分の能力(眇、跛)を過信し、分不相応な行動(虎の尾を履む)に出てしまうことの危険性を警告しています。謙虚さを忘れ、自己の限界を見誤ると、大きな失敗(人を咥う、凶)を招きます。「武人于に大君と為る」とは、功を焦る武人が、かえって君主のために大きな失態を演じてしまう様を表します。自分の能力を客観的に把握し、分相応の行動を心がけることの重要性を示しています。
四爻:
虎(とら)の尾(お)を履(ふ)む。愬愬(さくさく)たれば、終(つい)に吉(きち)。
原文:履虎尾。愬愬、終吉。
書き下し文:虎(とら)の尾(お)を履(ふ)む。愬愬(さくさく)たれば、終(つい)には吉(きち)。
現代語訳:虎の尾を踏むような危険な状況にある。しかし、恐れ慎む心(愬愬)をもって対処すれば、最終的には吉となる。
ポイント解説:
再び「虎の尾を履む」危険な状況ですが、六三とは対照的に、ここでは慎重さと思いやり(愬愬)をもって事に当たることで、危機を乗り越え、最終的に良い結果(終に吉)を得られることを示しています。困難な状況や、目上の人、あるいは扱いの難しい相手と接する際には、恐れと敬意を持ち、慎重に行動することの重要性を教えています。
五爻:
夬履(かいり)す。貞(てい)なりと雖(いえど)も厲(あやう)し。**
原文:夬履。貞厲。
書き下し文:夬履(かいり)す。貞(てい)なりと雖(いえど)も厲(あやう)し。
現代語訳:決然として道を踏み行う。正しい道を守っていても、危うさが伴う。
ポイント解説:
君主の位にあり、強い決断力(夬)をもって正しい道(履)を断行しようとする時です。その志は正しく(貞なりと雖も)、力強く進むことができますが、それでもなお、その高い立場と強い影響力ゆえに、周囲からの反発や予期せぬ危険(厲し)が伴うことを忘れてはなりません。強い信念と行動力を持つ時こそ、細心の注意と謙虚さが必要であることを示唆しています。
上爻:
履(ふ)む所(ところ)を視(み)、祥(しょう)を考(かんが)う。其(そ)れ旋(めぐ)れば元吉(げんきつ)。**
原文:視履考祥。其旋元吉。
書き下し文:履(ふ)む所(ところ)を視(み)、祥(しょう)を考(かんが)う。其(そ)れ旋(めぐ)れば元吉(げんきつ)。
現代語訳:これまでの行いを振り返り、その結果として現れた吉凶の兆しをよく考察する。そうして(反省し、原点に立ち返れば)大いに吉である。
ポイント解説:
「履」の道のりの最終段階。これまでの自分の行い(履む所を視)と、その結果として現れた様々な兆候(祥を考う)を、冷静に、そして深く振り返ることが求められます。成功も失敗も全てが学びであり、その反省を元に、自分の原点や本質に立ち返り(其れ旋れば)、これからの道を修正していくならば、大きな吉(元吉)が得られるでしょう。自己評価と軌道修正の重要性を示しています。
4-3. 大象伝(たいしょうでん)– この卦の形から学ぶ、理想のあり方
原文(漢文):象曰。上天下澤、履。君子以辨上下、定民志。
書き下し文:象(しょう)に曰(いわ)く、上(うえ)は天(てん)、下(した)は澤(さわ)なるは履(り)なり。君子(くんし)以(もっ)て上下(じょうげ)を辨(わきま)え、民(たみ)の志(こころざし)を定(さだ)む。
現代語訳: 象伝は言う。上に天があり、下に沢があるのが履の形である。君子(人格者)はこれに倣(なら)い、上下の別(秩序や役割分担)を明らかにし、民の志(目標や心の拠り所)を安定させる。
ポイント解説:
天は上にあり、沢は下にあるという、自然界の明確な秩序。これが「履」の象徴です。君子は、この自然の秩序に学び、社会においても、それぞれの立場や役割(上下)を明確にし、人々が混乱することなく、安心してそれぞれの目標や本分(民の志)に向かって努力できるような、安定した秩序を確立することの重要性を理解します。これは、単なる身分制度ではなく、それぞれが自分の役割を正しく認識し、調和の中で生きるための指針です。
5. むすび
天沢履の卦は、わたしたちが日々の生活の中で、どのように振る舞い、どのように人と関わり、そしてどのように自分自身の道を踏み行なっていくべきかという、具体的で実践的な智慧に満ちています。
- 1. 「履道坦坦(りどうたんたん)」の時も、「幽人(ゆうじん)」の心で謙虚に – 順調な時こそ、内面を磨こう: 二爻が示すように、物事がスムーズに進んでいる時こそ、驕ることなく、静かに自分の内面を見つめ、徳を養うことが大切です。順境にあっても、心の平静と正しさを保ち続けることが、その幸運を持続させ、さらなる成長へと繋げます。
- 2. 「虎の尾を履む」時こそ、礼と慎重さ、そして「愬愬(さくさく)」たる心を: 卦辞や四爻が示すように、わたしたちの人生には、目上の人との関わりや、困難でデリケートな状況など、「虎の尾を履む」ような緊張感のある場面があります。そんな時こそ、相手への敬意(礼)と、細心の注意(慎重さ)、そして内なる恐れと向き合う真摯な心(愬愬)を持って対処することで、危機を乗り越え、吉へと転じることができます。
天沢履の時は、わたしたちの「行い」そのものが問われ、そして磨かれる時です。礼儀と慎重さ、そして内なる喜びをもって、自分自身の信じる道を一歩一歩踏みしめていく。その誠実な歩みこそが、わたしたちの人生を豊かにし、周囲との調和へと導いてくれるでしょう。
